瀬戸神社の恒例の祭の主要なものを挙げると次のようになります
- 3月 春分の日:祈年祭・合祀神例祭(春祭り)
- 5月15日:例祭・琵琶島神社おわたり行事
- 7月7日~14日(これに近い日曜日~日曜日の八日間):天王祭(夏祭り)
- 11月23日:新嘗祭(秋祭り)
この中で、7月の「天王祭」は氏子町内挙っての盛大な祭りです
第一日曜は出御祭
お御霊が神輿にお遷りになります
それから三日めの晩に行われるのが「三ツ目神楽」です
「鎌倉神楽」「湯花神楽」または「職掌神楽」とも呼ばれる古風な湯立の神楽が夕刻7時から行われます
昔、鎌倉の鶴岡八幡宮に神楽方として奉仕した職掌といわれる神職家に伝承される神楽です
暗くなった境内には地元の子供たちが作ったあんどんに灯が入り、湯をたぎらせた釜の下で炎がゆらぎます
神職が釜の湯を御幣でかき回す時に湯花が立ちます
また笹を湯につけて参列者に振り掛けます
この湯を浴びたり、釜の湯をいただいて飲むとその年は無病息災ということです
第2日曜は神輿の町内巡幸です
各町内でも屋台・山車の上でお囃子が賑やかに打鳴らされ、大人・子供の神輿で終日賑います
夕刻、本社神輿が威勢よく宮入りをして祭りは終了します
この天王祭について簡単に解説をしてみましょう。
- 天王祭の特色・天王祭のはじまり
- 祇園祭と天王祭・午頭天王について
- 茅の輪と武塔神のものがたり・水を守り、田を守る神さま
- 昭和初期までの天王祭・三ツ目神楽の笹だんご
- 戦後の天王祭復興・昭和三十年代の天王祭
- 天王祭の牛車
- 金沢扇会の結成と神輿渡御の再興
- 三ツ目神楽
天王祭の特色
天王祭が他の祭りと異る特色は、神社を出発した神輿が氏子町内を隈なく巡幸することと、それに併せて、氏子町内の山車や屋台、大人や子供の神輿がくりだされる町内挙げての祭りであることでしょう
また、祭礼当日一日だけの行事でなく、八日間という期間のある祭りでもあります
(町内によっては、最終の土曜・日曜を宵宮と本祭りとして二日間で行っていますが、昔からの慣例のある町内は八日間の行事として行います)
山車や屋台では、各町内で伝承するお囃子が演奏され、木遣りに先導されて子供達が曳き綱を引いて町内を廻ります
瀬戸の山車には桃太郎の人形が乗っています
人形山車は全国的にみれば各地に例がありますが、横浜・湘南近辺や首都圏ではめずらしいものです
天王祭のはじまり
瀬戸神社の天王祭がいつから始ったかについては、明確な文献などの記録がないのではっきりとは言えません
今日も使用されている神輿や山車・屋台は江戸時代後期の作製とみられ、現在のような姿で祭りが行われるようになったのはその頃で、少なくとも二百年は続いている祭りであると言えるでしょう
しかし、天王祭の中には湯立神楽のような鎌倉時代に遡る要素もあり、さらに古い起原を想定することも否定はできないでしょう
この祭りは大名・武家衆の差配するまつりでなく、百姓衆・町衆のまつりとしての特色をもっています
このことからも、瀬戸・六浦・川・大道・三艘などの町内が、住民の自治的な機能をもつようになった頃に始ったものでしょう
それは戦国乱世が終り、徳川家康が江戸に幕府を開いて、金沢周辺も安定し、関西方面から江戸への海路交通も盛んになって、六浦湊も賑ったであろう江戸時代初期にも遡るものかもしれません
さらに、それ以前の小田原北條氏の支配した時代、あるいはそれ以前であっても、海上交通の要所であり鎌倉にも近い金沢には、都の文物の伝播もありましたから、六浦惣村が郷村としての機能をもつようになったであろう室町時代の頃に何等かの起原を求める可能性も残されていると思われます
祇園祭と天王祭
都の文物の伝播が天王祭の起原とどういう関係があるのかというと、「天王祭」の起原は京都の八坂神社の祭りであり、京都三大祭りとして賀茂神社の「葵祭り」、平安神宮の「時代祭り」とならんで有名な「祇園祭り」にあるからです
祇園祭りの起原は平安時代の御霊會という行事に遡るといわれますが、今日のような祇園囃子にあわせての山鉾はじめ各種の屋台の巡幸が行われるような形が出来上がったのは、室町時代のことで、応仁の乱で都が焼野が原の状態のなかでも、祭りを伝承した京都の町衆や神主の心意気が今も京都の人々には語り伝えられているとのことです
そして、この形式の祭りが、その時代に、全国各地に伝播しました。祭り囃子や衣裳などが、今日でいえば流行の音楽やファッションが全国に広まるように、流行の祭りとなりました
当時、音楽やファッションなどの流行を「ふりゅう」(風流・浮流)と称しましたが、六浦湊の人々もいち早くこの流行を取入れたに違ありません
午頭天王について
明治維新に神仏分離が命じられる以前は、多くの神社・仏閣は神仏習合の信仰があり、その思想に基き、祭りの行事が行われていました
京都の八坂神社も当時は祇園社と称し、感神院という名の寺院がその中心でした
その起原は、新羅の午頭山に祀られていた素戔嗚尊の神霊を八坂臣の祖先がお遷ししたとも、播磨の広峰に祀られた午頭天王を遷したとも諸説がありますが、神仏習合思想の下で、祇園精舍の護り神という午頭天王と、日本古来の神である素戔嗚尊(スサノヲノミコト)とが同一の神の別名、あるいは変化した姿と考えるもので、「祇園さん」「天王さま」と呼ばれて信仰されました
そして京都では、疫病を始めとする災厄から守ってくれる神さまとしてこの「祇園さん」「天王さま」を祀る行事として「祇園祭り」が始ったのです
茅の輪と武塔神のものがたり
さらに、素戔嗚尊には次のような伝承もあります
それは「備後国風土記」という書物に記されているものです
昔、蘇民将来(そみんしょうらい)と巨旦将来(こたんしょうらい)という兄弟がいました
兄の蘇民は貧しい暮らしをしていましたが、弟の巨旦は金持ちでした
あるとき武塔神がみすぼらしい姿で宿を借りたいと訪ねてきましたが、巨旦は断りました
蘇民は貧しいながらも親切にもてなしました
武塔神は蘇民の家族に茅の輪を腰にさげるよう教えました
後に疫病が流行ったときに蘇民の家族や子孫はみな助かったということです
このものがたりの武塔神というのは素戔嗚尊の別名だと書かれています
このことからも、天王祭は、病気をはじめ、人間の悩み、苦しみを祓い清めて下さる神様に、氏子町内を御神輿で巡幸いただく趣旨のまつりであることを知る事ができます
瀬戸神社では、六月末日の大祓行事と、それに続く七月の天王祭に、御祭神の御神徳を頂戴する御印に「茅の輪」守りをお頒ちします
天王神輿を担ぐ時などに腰に下げて、身の守りとしていただき、また、家の門口などにまつり、災厄消除・招運來福のお守りとなさって下さい
水を守り、田を守る神さま
しかし、以上のように、天王祭を夏の疫病除け、災厄除けのまつりとのみ理解する事は一面的な見方に過ぎます
天王祭にはもう一つ重要な意味が込められています
それは、「水」のまつりということです。古代から稲作を中心に生活してきた日本人にとって、「水」は非常に大切な天の恵みです
ことに、稲が成育し、開花し、穂を出す時期に、水田には多量の水が不可欠です
真夏には、日照も水も両方必要です
大昔から、日本人は真夏の水の恵みを水を司る神々に祈ってきましたが、天王祭にはこの伝統も受け継がれているのです
かつて、瀬戸神社の天王祭の御神輿には、キュウリがたくさんお供えされたそうです
キュウリは河童の好きな食べ物として知られていて、キュウリの海苔巻は河童巻ともいわれます
河童は、今日では愛敬のある妖怪の仲間のように見られますが、民俗学ではこれは古い時代の川の神、水の神の姿が変化して今日に伝承されたものと考えられています
八坂神社の御神紋は「木瓜」ですが、これはキュウリを輪切りにしたときの形を紋章に図案化したもので、水のまつりとのつながりはこのことにも類推されます
キュウリに限らず、瓜(うり)の類に関する伝承には、瓜子姫の話や、中国の天の川伝説に語られる瓜など、水に因む話が多くあり、それらは日本に限らずアジアやオリエントに拡がっています
これらを探ってゆくと、河童と天王祭と素戔嗚尊(スサノヲノミコト)についても、人類発生以来の遠い信仰にまでゆきあたるのかもしれません
夏祭りのロマンはそんなところにもあります
と同時に、こうした水の神信仰と結つく天王祭の性格に、江戸時代以前に遡る歴史を感ずることもできるのです
昭和初期までの天王祭
今日では、天王祭は本来の祭日に近い日曜日を選んで行われますが、本来の祭日は曜日には関係なく7月7日から14日でした
そして、本社の祭礼というより、氏子惣中による民間行事としての夏祭りで、瀬戸・六浦・川・大道・三艘の、いわゆる五ケ町が中心となって行われ、これに併せて瀬ヶ崎、室ノ木、また高谷などでも同様に行われました
祭りの「触れ元」は川の村役が当るのが例であったということです
7月7日午後、五ケ町の祭り役人参列の下で、本社に祀られる素戔嗚尊が「天王さま」として御神輿に遷座されます
これが出御祭です
(瀬戸神社の主祭神は大山祇神で、三島明神とも称されます
御本殿には、これに配祀という形式で、素戔嗚尊の御神体がお祀りされ、この御神体が、天王神輿にお遷りになるのです
因に、五月例祭の琵琶島神社おわたり行事の時に御神輿にお遷りになるのは、主祭神である大山祇神の御神体です)
この天王神輿は、五ヶ町の共有の神輿として扱われていたということです
「天王さま」が御神輿にお遷りになると、氏子青年が白丁を着けて神輿をかつぎ、神職や警護役が供奉して六浦にむけて出発します
兵隊検査を受けた青年(つまり20歳)が神輿をかつぐことになっていたそうで、以前、瀬ヶ崎西部の総代をされた長瀬卯一さん(出身は瀬戸町内)がかつがれたのが最後で、それ以後は戦争の激化により渡御がなくなってしまったとのことです
この神輿に、瀬戸の山車がお供をして六浦との境まで送り、一方、六浦の屋台が迎えに出て、神輿は六浦の仲町に設けられるお仮屋に入られます
この間、道筋の家々ではキュウリその他を神輿にお供えしたのだそうです
そして神輿は、そのお仮屋に7日間お留まりになります
お仮屋に入られて三日目の晩に行われるのが三ツ目神楽です
三ツ目神楽については別項で詳しく述べることとしますが、今日では神輿がお仮屋に留まることがなくなりましたので、瀬戸神社境内の庫神輿をお仮屋代わりとして、境内で行っていますが、本来は、六浦のお仮屋で行うものでした
七月十四日は還御祭となります
神輿は六浦のお仮屋を出発し、これに瀬戸・六浦の山車・屋台が従います
川・大道・三艘と五ケ町を一巡し、順次これに各町の山車・屋台が付き従い、夜になるとこれに提灯を点し、それぞれの屋台がお囃子を競いつつ、深夜になって神社に到着しました
神霊を御本殿にお遷ししおわると、吉例の七つ締めの手打ちにより散会となりますが、屋台が地元町内へ戻るころには、夏の短い夜が白々と明けてくることもあったと聞いています
三ツ目神楽の笹だんご
天王祭にはキュウリのお供えがあったと先に述べましたが、これとならんで、三ツ目神楽のおりには「笹だんご」が氏子の有志の方々により競ってお供えされました
「笹だんご」の作り方は、まず新芽をふき始めた清らかな新笹を三本用意し、これに粳米の粉を二分して一方には紅を加えて練り、紅白の団子を作って蒸かしたものを、さながら花の咲くように枝ごとにちぎり付けるというもので、笹の根元を白紙で包み、水引を掛けて神前にお供えされました
三ツ目神楽が終了すると、笹の小枝を折り分けて参列者に授与されました
戦後も、昭和30年代までは室ノ木の御出身で大道在住であった田島さんが永年にわたり「笹だんご」の奉献をされておられます
戦後の天王祭復興
戦争が激しくなることで跡絶えた天王祭の神輿渡御も、戦後になると復活します
瀬戸神社に残る記録では、昭和21年の書類が見当らないので、この年の渡御があったかどうか不明ですが、昭和22年の記録(磯子警察署長の許可書類)によると、御旅所は省略されていますが、概ね戦前の五ヶ町を廻る順路で実施されています
瀬戸神社を出発した神輿は、国道を南下し、関東瓦斯会社前で折り返して、六浦ガードに戻り左折、六浦を通過し、大道橋で折り返し、川町内を通過して三艘集会所まで進み、ここでも折り返して川町内に戻り、六浦を経由して瀬戸に帰るという順路が示されています
これに続く、昭和23年の記録では、これに南川、高谷、内川なども加わった順路になり、五ヶ町だけでない新たな町内の追加がなされ、これ以後、渡御の順路が次第に長くなってゆくことになります
昭和三十年代の天王祭
天王祭巡幸順路の町内の数も増え、順路が長くなると人がかついでの渡御が難しくなり、昭和30年代になると牛車を作製し、神輿をこれに載せて牛に引かせての巡幸が行われました
総代は羽織袴で花笠をかぶって供奉し、神輿の前後には錦旗や五色の真榊が加わるなど、厳かな行列でした
昭和35年の巡幸渡御時間表によると順路は以下のようになっています
瀬戸神社 発---午前9時
六浦 着---9時20分
塩場 着---9時35分
川 着---10時10分
大道 着---10時35分
大道西 着---11時
東川 着---11時40分
南川 着---12時15分
睦会友和会 着---12時35分
北辰神社 着---12時55分
昼食
北辰神社 発---午後2時20分
三艘 着---2時50分
高谷着---3時15分
瀬ヶ崎西 着---3時40分
瀬ヶ崎東 着---4時20分
内川 着---4時55分
六浦南 着---5時20分
瀬戸神社 着---5時55分
天王祭の牛車
御神輿を牛車にお載せして行列を作り、町内を巡幸した当時の写真は神社にも保存されてゐませんでしたが、福島盛治さん(南六浦)から秘蔵の写真の御寄贈をいただきましたので、御紹介いたします
橋柱と後方の山の様子から、瀬ヶ崎方面から内川橋を渡り六浦方面へ向ふところと判ります
総代さんたちは紋付の羽織を着用し、金棒引の挺子舞の姿や、雅楽を奏する伶人も供奉してゐる様子も見られます
この牛車による壮麗な行列の渡御は、見事なものでしたが、数年で終了しました
それは、牛や馬を使用する農業がトラクターなどの機械化農業に変化し、牛車を曳く牛の手配が困難になったことを始めとして、主要道路がモータリゼーション普及とともに、ゆったりとした行列の渡御が困難になってきたこと、また、近隣の宅地開発が進んだのに伴い、高舟台、瀬ヶ崎台、月抜、八景台など坂道の上の町内が加わったことなど、複合的な要因によるものでした
そのため、牛車は残念ながらしまわれたままになり、トラックに神輿を載せて全町内を巡幸する事がしばらく続けられました
金沢扇会の結成と神輿渡御の再興
昭和53年、トラックによる巡幸の最後の宮入りだけでも神輿を昔のようにかついで行なうこととなりました
柳町から八景東町内を経由し神社までの部分です
これは、瀬戸神社神輿保存会として金沢扇會が結成され、同会を中心に多くの神輿保存会・同好会の人数が結集されることにより可能になりました
これ以後、しばらくは柳町・瀬戸間が神輿に肩を入れての渡御巡幸となりました
この間、午前中はトラック巡幸としても、午後の時間をすべて担いでの渡御にすることが研究・提案され、昭和五十七年には西大道を出発し、宮入りまでを担いで渡御することが実施されました
ついで、翌昭和58年には川町内、相川邸門前を出発して、三艘、高谷、内川、瀬ヶ崎東西、そして柳町から瀬戸へというコースがとられ、さらに昭和59年には、相川邸から東川、月抜と一部トラック搬送を混え、南川からは三艘、南六浦、柳町、瀬戸を順路とするコースがとられることとなりました
それ以後、西大道を出発地とする「第一順路」、川町内(相川邸)を出発地とする「第二順路」、南川町内を出発地とする「第三順路」が設定され、三年おきにこのコースを繰り返すことが行われてきました
三ツ目神楽
さて、瀬戸神社の天王祭の三日目の夜、「三ツ目神楽」という神楽が行われます
昔は、六浦の御旅所で行われましたが、現在は神社の境内の、神輿庫の前で行われます
大きな御釜に熱湯を沸す湯立てを伴う神楽で、「鎌倉神楽」「職掌神楽」あるいは「湯花神楽」とも呼ばれます
古く、鎌倉の鶴岡八幡宮には「職掌(しきしょう)」とよばれる社家があり、この職掌が伝承する神楽であったことから「職掌神楽」の名があるのです
職掌の神楽のことは、鎌倉幕府の記録である「吾妻鏡」にも記載されていて、鎌倉時代から伝わる神楽であることは明瞭です
職掌の家柄のひとつである宮司の佐野家が今日も伝承、奉仕しています
その所作は、里神楽のような演劇的な物語性を持ったものではなく、四方の諸悪を言向け鎮める御祭神の御神徳を表現したもので、天下泰平、万民和楽を願い、氏子一同の平穏、息災と隆昌繁栄を祈るものと言えましょう
演奏には笛・太鼓(大胴と締め太鼓)が使用され、これに舞人の四名が必要です(演目により舞人が二人になるものもあります)
笛、太鼓の曲目としては、「乱地」「拍子」「三つ拍子」の三種類があり、これが舞に組み合されます
今日行われる演目は以下の通りです
一、羽能(はのう)
始まりの神楽
扇に米をのせて舞い、四方 に米の打ち撒きをします
一、お祓い・祝詞(おはらい・のりと)
天地人の祓えののち、湯立ての釜を清めます
神前にもどり、御幣を捧げもって祝詞(微音暗唱)を奏します
一、御幣招き(ごへいまねき)
御幣を捧げ持って舞います
御祭神の神霊 をお招きし、神威の発揚を表現したものと申せましょう
一、掻湯(かきゆ)
御幣の串を釜へ入れ、湯を掻き回します
この時、お湯がよく煮立っていると、回転する釜の湯の中央に沸騰した泡が噴水のように立上がります
これを「湯花が立つ」といいます
大きな湯花が立つと、吉兆であるとされます
一、射祓(いはらい)
弓矢による四方の祓いです
諸悪を退散させる御神徳の力強さの表現でしょう
一、湯座(ゆぐら)
笹の手房を湯に浸し、参列者に湯しぶきを振りかけます
この湯を浴びると無病息災と言い伝えられます
一、剱舞(けんまい)
猿田彦面(天狗面)を付けての最後の神楽
鉾で四方を言向け、呪文を奏して終了します
参列者たちは神楽終了後、御幣・弓矢などの神楽道具を持ち帰り、家内安全のお守りとしたり、お釜の湯を飲んで無病息災を祈願するのが古来の習慣です
毎年、9日またはその前後の火曜日の午後7時より行われますので、おそろいでお詣りください