御神号額「正一位大山積神宮」について

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みたまのふゆ 第96号(令和6年5月15日発行)より

瀬戸神社のご祭神(主祭神)は大山祇命です。
日本書紀には「大山祇神」、古事記には「大山津見神」と表記され、風土記には「大山積神」と記されます
古事記では、奇稲田姫命の父神の足名槌は大山津見神の子と名乗り、また瓊瓊杵尊の妃となる木花之佐久夜毘賣は大山津見神の娘であり、他にも様々な箇所に登場します
日本書紀の一書では火の神軻遇突智を三段に斬り、大山祇神・雷神・髙龗と成ったとされ、また別の一書では五段に斬ったのが大山祇・中山祇・麓山祇などの五山祇になったとあります
神話の神々は多様な表記方法や伝承が複合的に記録されてゐるのです

瀬戸神社に伝来する神号額の最も古いものが「正一位大山積神宮」と記されたものです

この額の裏面には「延慶四年辛亥四月廿六日戊辰書之」の揮毫日付と「沙弥寂尹」の執筆者名の陰刻があります
寂尹は藤原経尹(つねまさ)の出家した法名で、「徒然草」には勘解由小路二品禅門(かでのこうじのにほんぜんもん)の表記で記録されてゐます(百六十段)
三蹟として書道の名人とされた藤原行成から十代目にあたり、書道の流儀は世尊寺流と呼ばれました

古来、書道の達人として「三筆」と「三蹟」が知られます。「三筆」は弘法大師空海・橘逸勢・嵯峨天皇で、平安時代初期に活躍し、「三蹟」は小野道風・藤原佐理・藤原行成で平安時代中期の能書家となります
「三筆」は、空海・逸勢が入唐して学んだ唐様の書風を基本としたのに対し、平安中期の「三蹟」はこれを和様にした書風を定着させました

行成の子孫は代々、朝廷の清書役をつとめる「能書の家」として書法故実を継承し、「世尊寺家」と称されました

行成を初代とする系図を示すと、①行成ー②行経ー③伊房ー④定実ー⑤定信ー⑥伊行ー⑦伊経ー⑧行能ー⑨経朝ー⑩経尹ー⑪行房ー⑫行尹とつづき、⑩経尹から⑪行房のころが鎌倉幕府の幕末期から南北朝時代で、行房は後醍醐天皇の隠岐遷幸に供奉もしてをります

鎌倉時代になると、武家の素養としては単に弓馬の武芸にとどまらず、ことに将軍に近侍する者には「芸能」に秀でてゐることが必要とされ、蹴鞠や管弦とともに、「能書」「手跡」も重視されるやうになりました
五代将軍頼嗣のころは、九条家に縁のある法性寺様といふ書風が主流となりましたが、その後、次第に世尊寺流が坂東武士に好まれるやうになったといはれます

その背景には、六代目伊行のころから、世尊寺家がたびたび関東に下向し、武家と交流を密にするやうになったことが伺へます

ことに、九代目の経朝は文永九年(1272)と同十二年の二度にわたり関東に下向し、北条時宗の信頼もあつく弘安の役の恩賞問題にも深く関はった安達泰盛に書写の口伝をしてゐます。鎌倉幕府の中枢の武士が世尊寺流の書法を学んでゐたのです

文永六年には蒙古・高麗に対しての返信文書を経朝が清書してをり、公家・武家に関わる外交文書にも携はってゐたことが伺へます

金澤文庫文書の金澤貞顕書状には、貞顕が父顕時の年忌法要のために諷誦願文の清書を経尹(すなはち寂尹)に依頼したことが見えてをり、貞顕は六波羅探題に在京中を含め、世尊寺経尹と親しく交流してゐたことが明らかです

貞顕の六波羅探題在任は、正安四年(1302)から嘉元二年(1304)までと、延慶三年(1310)から翌年までの二度になりますが、神号額は二度目の在京時に「正一位」の神階とともに依頼したものとしてよいでせう

「正一位」といふのは「神階」といって、神々に与へられた階位で、神威の高い諸国の神々に授けられました。伏見の稲荷が「正一位」となったので、全国に勧請された稲荷社も「正一位稲荷大明神」と称するこのも江戸時代ころまで広く行はれました

藤原佐理の神号額も

瀬戸神社の本殿御扉上部の長押に「日本總鎮守」の額が掲げられてゐます
参拝者からは見えにくい部分ですが、写真を掲載してをきます

この額の筆者も「三蹟」の一人である藤原佐理です

愛媛県大三島に鎮座する伊予国の一宮である大山祇神社に藤原佐理が奉納したといふ額があり、時代は明確ではありませんが、その文字の写しの額が瀬戸神社に伝来したものです

佐理がこの額を奉納した経緯については「大鏡」に物語があります

「大鏡」は、文徳天皇から後一条天皇の代までの天皇の事跡のほか、様々な事件や当時の重要人物の動向を大宅世継(おおやけのよつぎ)と夏山繁樹(なつやまのしげき)という百五十歳をこえるといふ二人の老翁が語る形式で表された歴史物語です

藤原佐理は正暦二年(991)大宰大弐に任ぜられ、大宰府に赴任し、長徳元年(995)に任を解かれて帰京します。「大鏡」に記されるのはこの帰京時のことです
大宰府からの帰路は海路となりますが、伊豫国を前にして風波が激しく、いつまでも船を出すことができぬ日々が続きました
ある夜、佐理の夢に気高い翁が現れて「この嵐は我が起こしてゐる。どこの社にも額が掲げられてゐるが、我が社にないのは不都合だ。誰かに書かせたいが並みの書き手ではよろしくない。おまえが通りかかったのが良い機会だから、嵐でとどめ置いてゐるのだ。」と告げました
翁は三島の神であるとのことで、お引き受けしますと答へて目が覚めたところ、順風を得てたちまちに大三島に到着したので精進潔斎をして装束も正装を着して書き上げ、神主を呼び出して神前に掲げたといふことです
以後、海路は平穏で無事に帰京したとの物語になってゐます

佐理が揮毫したといふ額は、「日本總鎮守」「大山積大明神」と二行縦書きで、重要文化財に指定されて保存されてゐます

大山祇神社に参拝すると、現在も鳥居には銅製の額が、また総門には彩色された額が掲げられてゐるのを拝することができます

瀬戸神社の額は、「日本總鎮守」の五文字を横書きにして写したとものなってゐます

この「日本總鎮守」といふ御神徳の無邊なることを、日々の参拝の折にも体感していただければ有り難く存じます

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